« 2009年4月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年5月

母の死(2)

 母が90歳を過ぎて、予てから持病の高血圧が悪化して、ある朝脳溢血を起こして、救急車で病院に担ぎ込まれた。私は単身赴任先の三島から駆けつけたときには、意識が戻っていて、しきりに家に帰りたかがったが、治療を続けるためにそのまま入院ということになった。

 歳が歳なものだから、病状も一進一退を繰り返し、少しよくなると廊下を歩いたりしてリハビリをしていた。私が見舞いに行くと、よく昔話をするようになったが、それほどボケが来ているようには見えなかった。 

 少しづつ身体は衰弱し、93歳になって意識も薄れていって、特別室に移されたが、余程生命力が強かったのか、力強く心臓は働いていた。

 1991年秋、京都地方を台風が通過して、その出水で先祖の墓が流されたと言う連絡があり、修復に必要な工事等について、お寺から指示があった。早速指示通りの手配をお願いしたが、意外と手間取り翌1992年5月になってようやく完成した。その頃は丁度母が死線をさまよっている頃であった。
 
 6月7日に新しくなったお墓の入魂式(?)をするというので出かけた。子供の頃から見慣れたお墓とは違って、比較的広い土地に20基ほど石塔が並び、新しく五輪塔が出来上がって、立派に完成していた。
 
 無事入魂式を終えて横浜に帰ってきたが、その辺りから母の容態が急に悪化して、同じ月の24日に他界することになる。不思議と言えば不思議であるが、母 は自分の帰る所がキチット完成するのを見届けて、ようやく安心して身まかったのだろうか。人間の英知を超えた神の世界を見たように感じた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母の死(1)

 まだ私が5、6歳の子供だった頃のことです。当時、夜寝る前には母に本を読んでもらっていたが、その日のお話は「ある人が素晴らしい仕事をやり遂げて、神様から大変褒められ、褒美に何でも好きなものを上げようと言われた。」というものでした。(子供の本ではよくある話ですが)その時、その人が神様に何をお願いしたかはすっかり忘れてしまいましたが、私は自分も大きくなったら神様に褒めてもらえるような仕事をするんだと強く心に誓ったものでした。と同時に、心に浮かんだのはもし自分がよい仕事をして神様から好きなものを一つあげると言われたら、何をお願いするだろうかということでした。

 眠れないままに、真剣になって考えた末に考えついたのは「母が死ぬ時には、自分も一緒に死なして欲しい」と言うことでした。5歳や6歳の子供が考えることではないのかも知れませんが、当時大変病弱だった私が母の献身的な愛で育てられ、母なしでは一日も生きられないと思っていたせいではないかと思います。

 因みに、母は1899年生まれで、私が1934年生まれですから、35歳の違いがありました。母の兄弟は男3人、女3人の6人兄弟で、母は女姉妹の真ん中でしたが、家系的に短命だったのでしょうか、当時既に上の兄二人が亡くなっていました。その後も次々に亡くなり、ついには弟も妹も亡くなって、兄弟では母1人になってしまっていました。

 私は1957年に社会人になり、59年には両親を社宅に呼んで一緒に暮らし始めました。1970年に父を送り、以後は新しく出来た私の家族と母を伴って、各地の社宅暮らしを続け、1974年、横浜に自分の家を確保して、母も一応落ち着いた生活が出来ていたように思います。その時私が40歳で、母は、今の私の歳である75歳でした。

 その後母が80歳になっても、85歳になっても元気で頑張ってくれているのを見ている内に、私が子供のときに神様に誓った「母と同じ時に死なしてください。」という言葉を思い出しました。勿論、当時は逆に母を庇護する立場にありましたが、母としてはまだまだ私が頼りないと思っていたのかも知れません。

 母は93歳で身罷りました。私は定年間近の58歳でした。ようやく母から独り立ちを許されたような、不思議な気持ちでした。今は天国にいる母は、私が早くやって来るのを心待ちにしてくれているように感じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

死ぬことの恐怖

 前々回に「死に目をつぶらないで」と題して書いたが、周りの人たちは(自分も含めて)必ず訪れる「死」に対して、必ずしも正面から向き合っていない理由として、「死」に対する恐怖があるのかも知れない。

 死ぬことに対する恐怖がどこにあるのかを考えてみると、一つには長年住み慣れた生活との別れや、親しみ合った人たちとの別れ等があり、他方では「死ぬ時の苦痛」があるように思うが、どれほどの恐怖に感じているのだろうか。

 犯罪の極刑として「死刑」があると言うことは法律的にも「死」が人間にとって一番耐え難いものであるとの認識であり、どうしても避けたいもののようである。

 しかし一方で、毎年日本だけで3万人を超える人たちが自殺している事実をどう捉えたらいいのだろうか。勿論、死ぬことの恐怖よりは、この世に生きて行く苦痛の方が大きいと判断して死を選ぶのだと考えられるが、このことは死が人間にとって一番耐え難いものであると言う論拠からすると間違っているようである。

 ましてや、私がここで書いているように、「魂」のベースで考えると、生物に「死」などないのだと言う考え方に立てば、死ぬこと事態が否定されているのだから、その恐怖などありえないと考えられるのだが。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年9月 »