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2009年2月

三渓園での横笛の演奏

 町内会のシニア・クラブでは、原則として毎月近くの遊園地などを散策する行事を続けている。1月の行事が天候の関係などで伸びて、2月になってしまった。

 計画する立場としては、やや焦り気味に近場の三渓園の観梅会にしようと決めて、会員に案内をした。期日は2月10日(火)として、9日に下見に出かけた。

 庭園内を一通り見て回って、梅の咲き具合や、見所など目ぼしいものをチェックし、帰りに事務所によって「ボランティアによる説明員」をお願いしたら、都合よく空きがあって、今日頼んで、明日の行事にも拘らず、引き受けていただいた。

 そんな準備が進んでいる最中に、Uさんから今度の22日(日)に仲間が集まって、お寺の本堂を借りて、演奏会をやるから、私にも笛を吹いてはどうかと誘いを受けた。

 三渓園は横浜では有名な広い池と古い建物で構成された素晴らしい庭園ではあるが、自分にとってこの前に来たのはもう十数年前になると言うぐらい、疎遠な存在であったが、今月に入って行事で二回も来たことに加えて、元燈明寺の本堂での演奏会への参加のお誘いまで受けたのは、単なる偶然なのだろうか。

 最近読んだ本に「引き寄せの法則」というのがあって、自分の運命の流れの中で、類似した現象が起こることを学んだ。この二週間足らずの間に、三回も訪問する機会が出て来るというのは、「引き寄せの法則」そのものであり、その流れに乗るべきだと考えて、この演奏会への参加を承諾した。

 とは言え私一人の力では笛で演奏会をまとめることは出来ないと悟り、笛のT先生に声をかけたら、喜んで参加するとご返事を戴いたので、勇気が湧くとともに、これも流れの一環かもしれないと悟った。

 結果的には20分足らずの出番ではあったが、気持ちよく笛が吹けたし、本堂の中で音が響いて、経験したことのない荘厳な雰囲気を味わうことが出来た。

 神の摂理を感じた一日であった。 

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物事はどこに記憶されているか

 普通我々は見たり聞いたり学んだりしたことなっどは自分の能に記憶されると考えられている。

 しかし、文献によると、生まれる前の記憶を持っている子どもがいるということである。その子どもにとって、生まれる前の記憶というのはほんとに脳に蓄えられているのだろうか。言葉も出来ない、赤ん坊に生まれる前とは言え、それなりの基礎的な記憶がないと、まとまった形で記憶として形成できないのではなかろうか。

 老人になって、痴呆が始まると、脳は萎縮し、今食べた食事の記憶もなくなっていくのだと言われている。ほんとに脳にあった記憶がなくなっているのだろうか。或いは、脳に蓄積された記憶がシナプスが切れていて、読み出せないだけなのだろうか。

 脳は当然ながら肉体に所属し、死をもって脳も機能しなくなるはずである。しかし、肉体とは別に意識体の部分がこの記憶の部分を受け持っていると考えないと辻褄が合わないように思う。だとすると、この人間の持つ記憶というものを肉体と、意識体とがどのように分担しているのだろうか。

 ある本によると、五感で感じることは肉体に属し、感情は意識体が感じているといっているが、「うれしい」とか「悲しい」とかの感情は脳で感じているのではなく、ハート(意識体)で感じているのかもしれない。

 我々はどれだけの記憶を持ってあの世に旅立つことになるのだろうか。

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