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2008年12月

「癌」待望論

この記事は丁度10年前に書いて、ホームページ上で発表し、賛否両論をいただいたが、歳を取るに従って賛成が増えてきているようである。ここに再掲して認識を新たにしたい。

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日本は今や世界一の長寿国になっているが、これは日本の医療技術の高さと、誰もがこの高度な医療が受けられる環境がそうしているのだと思う。しか しこの結果として、一方では年寄りの人口比率が急激に大きくなって、特に年金や介護の点で問題になってきている。政府もこの点での対応策を準備している。

これは一般的な話であるが、自分の問題として考えてみる必要がある。
自分もこの4月で満65歳になる(十年経っているので75歳なるが)。今のところは元気で生活していく上での不自由は無いが、これからは歳と共に、いろんな形で動けなくなって行くし、ましてや一度病気や怪我をすると、それを機会に足は衰え、体は鈍って、普通の生活に戻ることは難しくなると思われる。

必然的に死と向き合うことになるが、一般的には人は出来るだけ長生きしたいと考えているようだし、そのような努力をしてきていると思う。

自分としては長生きするよりも、周りの人にあまり迷惑を掛けないでオサラバしたいと思っている。歳を取って動けなるだけではなしに、脳溢血や、脳血 栓のように、神経をやられて、動けなくなることもあり、これを含めて兎に角家族や病院の関係者に迷惑の掛からないように旅立つことを願っている。

どのような死に方があるのか、これは神の領域の仕事であって、自分にどうすることもできないが、上記のような観点からいくつかを考えてみたい。

ありそうなことでは交通事故があるが、これはどちらに落ち度があったにせよ、やはり大きな悲しみが伴うとしたら、出来るだけ避けたいと思う。やはり 何らかの病気ということになるが、上でも触れたように、機能障害の残る病気は出来たら勘弁してほしい。心臓関連の疾病だと、勝負は早いが、もう一寸この世に 名残が残せる方がいいような気がする。

そうして考えてくると、「癌」というのはなかなか捨てがたいものがある。
しかもその癌を治療するために、切ったりはつったりすると、あちこちの臓器が痛んで、命は助かっても、寝たきりになるのではアブハチ取らずになるので、出来るだけ「癌」も自然な形での、最後を迎えるのが良いのではと思っている。

現役時代は家族を養わなければならなかったので、毎年必ず人間ドックで検査を受けてきたが、退職後はいっさい止めた。何とか癌がとりついてくれないかと密かに願っているこのごろである。

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生きがいの創造

 1995年に退職した後、「何が生きがいか」を模索していた時、福島大学の飯田先生が書かれた「生きがいの創造」という本にたどり着いた。どのような経緯でこの本に行き着いたのかはよく憶えていないが、ある種の啓示があったのかも知れない。

 自分は一応技術者であるので、唯物論的な論理に対しては納得し易いが、唯心論的な記述を自分のものとして理解することは難しい。しかし、飯田先生ご自身もその辺の読者の心理を読んで、記述の中に世界の沢山の学者の研究成果を引用することで、述べていることの真実性の説得努めておられる。

 その考え方の骨子になっているのが「輪廻転生」であり、それぞれの魂がこの世に生まれてくるのは、それぞれの魂がそれぞれの目標を掲げて生まれてくるので、従って一般的な意味での「不幸」な状況に遭遇したとしても、それが元々目標としてきた人生であり、その所謂「不幸」な人生を精一杯生きることが、その人の生きがいになるということだ理解できて、納得できるものを感じていた。

 その後飯田先生が出された生きがいシリーズといわれる本を片っ端から読み漁り、それなりの理解が深まったように思う。
 

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輪廻転生

この世の中で生物はそれぞれ長短はあれ必ず寿命がある。人間について考えると、若くして病気や事故で亡くなる方もおられるが、長生きしたといっても100歳前後では寿命が尽きることになる。
確かに肉体は老化のために衰えていき、終には息絶えることになるが、その魂というかスピリットと言われているものはその体から離 れて自分の故郷に戻っていくと考えている。「魂」の故郷を天国だとか極楽だとかとイメージしているが、現在では異次元の世界であるというのが定説になってきてい る。
故郷の戻った「魂」は何年か後か、何十年か後に、再び別の人の肉体に宿って、又新しい人生を送ることになる。これらの一連の循環 を「輪廻転生」と称しており、今や仏教だけの言葉に留まらなくなってい る。
ここの魂は何のためにこの世に生を受けてやってくるのか。個々の魂はそれぞれ未熟な部分が沢山あって、その都度それぞれ目標を定 めて、その目標に向かって修練を積むためだと考えられている。
例えば、貧しい家庭に生まれ、家族が助け合って幸せな家庭を築いていくとか、傷害を負った不自由な身体で精一杯生きていこうと か、すべての魂はそれぞれの目標を持って人生を送るわけで、一般的に言われている運不運とか、幸不幸があるわけではない。それぞれが目標に対して順調な人 生であるということになる。
従って、人の「死」とはその人生における修養のタイムリミットであって、魂の終焉ではない。つまり、我々は死ぬことを必要以上に 恐れることはない。と同時に、人生の価値とは生きている間に如何に誠実に過したかに掛かっているわけである。

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